1
三月にもなると、それまで権勢をふるっていた冬も衰えを見せはじめる。だが、春のほうは気まぐれで、なかなか本気を出してくれない。暖かくなったと思えば、また寒くなる。記録的な大雪が降ったりするのも、意外とこの時期が多い。それでも、吹く風には春の匂いがかすかに含まれていた。
そして、ここ友枝小学校にも、春を象徴するものが間近に迫っていた。
「もうすぐ、春休みですわね」
弾んだ声で知世が言った。
ホームルームの時間なのだが、先生はまだ姿を見せていない。そのわずかな時間、それぞれ思い思いに雑談している。
「うん! 夏休みと違って宿題もないし」
さくらもうれしそうだったが、知世がうかれている原因はべつにあった。
「春休みといえば、さくらちゃんの誕生日ですわぁ」
うっとりとした表情で宙を見つめている。
「ああ、今年はどうしましょう。やっぱり特別な日ですから、特別な衣装が必要ですわね。あと、それから、それから・・・」
知世は、完全に自分の世界に入ってしまっている。その脳裏では、華麗な衣装を身にまとったさくらが、さまざまなポーズをつけて微笑んでいた。
「と、知世ちゃん?」
「幸せですわぁ・・」
こうなってしまうと、もう手がつけられない。さくらは、トランス状態の知世を現実世界に引き戻すのをあきらめた。
「李くんは、春休み、どうするの?」
突然に話を振られた小狼は、わずかに顔を上気させてしまう。
「いや、べつに」
そう答える小狼は、なにか迷っているように見えた。
「お、おまえ」
意を決したように言いかけるが、そこで黙ってしまう。
「ん? なあに?」
小狼の顔はますます赤みを増していたが、さくらは気にしている様子もない。
「誕生日・・・なのか?」
「うん、四月一日なんだ」
「そ、そうか」
ガラガラ。
その時、教室の扉が開く音とともに、先生が入ってきた。
雑談タイムの終りである。
「それじゃ、ホームルームを始めるぞ」
見れば、なにやら資料を抱えている。それを教卓にどさりと置いた。
「もうすぐ春休みだが、進級に備えて補習がある」
寺田先生がそう告げると、クラスは色めき立った。数人の例外を除いて、みな口々に不満を訴える。その例外のなかに利佳がいた。むしろ、うれしそうな表情である。
「まあ、慌てるな。補習といっても強制じゃない。自分の判断で出欠を決めていい」
安心したのか、騒ぎは収まり、クラスは平静を取り戻す。
「だが、苦手な教科だけでも出たほうがいいぞ。あとで苦労するからな」
この言葉に反応して、また私語が多くなる。不満をもらすのではなく、近くの友達にどうするか相談しているらしい。
「あうー。どうしよう」
情けない表情で、情けない声をもらしたのは、さくらだった。
「さくらちゃん、補習、受けられますの?」
知世は、いつのまにか「あっちの世界」から帰ってきていた。
「あんまり出たくないけど、算数、苦手だから・・」
「さくらちゃんが出席なさるなら、私もご一緒しますわ」
「え? いいの?」
「もちろんですわ」
そんな会話を交わしているうちに、何かプリントのような物が回ってきた。
「いま配っているのは、補習の日程表だ。出席する者は、今から計画を立てておくように」
ふたりは、その日程表に目を通した。
それによると、補習はすべて午前中に行なわれるようだった。一日に二教科分、それぞれ四十分の時間割である。参加は任意。必要と思うものを自由に選ぶことになっていた。
「ほええ〜、四月一日、算数の日だよぅ」
深々とため息をつく。
「あら〜」
確かに、四月一日は算数だった。もうひとつは理科。
「でも、お昼には解放されますわ」
「うん・・」
そうは言っても、あまり元気にはなれなかった。
2
その夜、夕食を済ませた小狼は自室のベッドで横になっていた。天井を見上げながら、何か考えごとをしているようにもみえる。
以前は、考えることといえば、クロウカードのことだけだった。だが、最近は余計なことまで考えてしまうことが多い。しばらくそのままの姿勢で、じっと天井の一点を見つめていたが、ふいに起き上がると、その「余計なこと」を振り払うかのように、勢いよく頭を振った。
そして、手近にあったラジオの電源を入れた。
特にこれといって、聴きたい番組があるわけではない。ただ、気分を変えるきっかけが欲しかっただけである。
ラジオから話し声が聞こえてくる。
『もうすぐ、好きな子の誕生日なんです』
『へえ、そうなの』
いわゆる視聴者参加型の番組で、一般から電話を募り、パーソナリティーとの会話がウリの番組であることが、その雰囲気から推察できた。
『なにかプレゼントするの?』
『それが、迷ってるんですよね』
『なんで? 喜ぶんじゃないかな。その子も』
小狼の脳裏に、さくらの笑顔が浮かぶ。
が、とっさに頭を振る。
「なんで、あいつが!」
もちろん、その声はラジオの向こう側には届かない。小狼の内心にお構いなく会話は進んでいた。
『なに贈ったらいいですかね』
『うーん、ひとそれぞれだからなぁ・・。女の子のことは、女の子に訊くほう
がいいかもしれないね』
「なるほど・・・」
と、つぶやいたのは、ラジオの前の小狼だった。
はたと我にかえる。
「なっ、なに言ってんだ、俺は!!」
怒ったような顔で、ラジオのスイッチを切った。
3
「それじゃ、みんな気をつけて帰るんだぞ」
寺田先生のこの言葉を最後に、帰りのホームルームが終った。
さっそく鞄を背負い教室を出る者、居残って雑談する者、様々である。
「おい」
帰り支度をしていた知世の背後から、小狼が声をかけた。さくらが席を立った直後のことである。
知世は振り向いて応えたが、小狼は黙ったまま何も言わなかった。
「どうかしましたか?」
「いや・・、なんでもない」
そう言い残して、小狼は教室から出ていった。
小狼は階段を降りて、昇降口へと向かった。
下駄箱から靴をとりだしていたとき、話し声が耳に入ってきた。
「ねえねえ、今日は寄り道してしていかない?」
「うん、いいけど」
「どこにいくの?」
声の主は、千春、奈緒子、利佳の三人組だった。
「ちょっと欲しいものがあるんだ」
「もしかして、あそこの店?」
「あそこはいいよねぇ。行くと、いろいろ欲しくなっちゃう」
その時、あの言葉が甦る。
――女の子のことは、女の子に訊け。
その10分後。
小狼は、看板に「TWIN BELLS」と書かれた店の前にいた。彼女たち三人のあとをつけて、この店まで来てしまったのだ。途中、何度も引き返そうとしたが、足がいうことを聞かなかった。
だが、この店にたどり着いたものの、さすがに店内に入ることはできず、その場でウロウロするはめになった。
カラン、カラン、カラ〜ン。
鈴の音とともにドアが開いた。
とっさに物陰に隠れる小狼。
店から出てきた千春たち三人は、楽しげに談笑しながら帰っていった。もちろん、小狼のことには最後まで気づいていない。
小狼は、恐る恐るドアに近づき、ガラス越しに店内をうかがった。
客はいなかった。奥のほうで、店の主人と思われる女性が商品の整理をしているのが見えた。
店の構えや内装の雰囲気からして、男性客が入るには少々勇気が要った。ましてや、これまでこういう店に全く無縁だった小狼である。強大な魔力をもつ相手に立ち向かうほうが、よほど楽に思えた。
まるで鎖につながれた犬のように、その場をグルグルと歩き回っては店内をうかがい、躊躇して、また歩き回る。その繰り返しだった。
これで何度目になるだろうか、中をのぞき込もうとしたとき、ふいにそのドアが開いた。
「いらっしゃい」
店の主人の真樹だった。
「いっ!」
とっさに反応できない小狼。
真樹は、とっくに小狼の存在に気がついていた。あれだけウロウロしていれば当然である。なんとなく事情を察して、はじめは気がつかないふりをしていたのだが、いっこうに進展する気配がない。だんだん気の毒に思えてきて、思い切ってこちらから招き入れることにしたのだ。
「どうぞ」
硬直している小狼を、笑顔でうながした。
李小狼は、いまやツインベルの「お客様」となっていた。顔と耳を真っ赤に染め上げて、所在なげに足元に視線を落としている。
「ゆっくり見ていってね」
真樹は少しかがんだ姿勢で、小狼に微笑んだ。
そのあと、あえて商品整理の続きを再開した。小狼が気兼ねなく店内を見て回れるようにとの気配りである。
店内には、ぬいぐるみをはじめとして、アクセサリー、オルゴールなどの置物、絵柄の美しい皿やティーカップ、それにノートなどの文具がならべられている。
小狼はギクシャクしながらも棚に近寄り、しばらくの間、それらの品々を眺めやっていた。
手近な品を神妙な顔つきで手に取ってみる。そして、ため息をついて元の位置に戻す。
なにがいいやら、さっぱり分からないのである。
ふと見ると、クロウカードに似たものが置かれていた。興味を示し、それに近づく。その中の一枚に手をかざして気配を探ってみたが、特別な力は感じられなかった。
(なんで、こんなものを喜ぶんだ?)
彼には、女の子の趣向を理解することは困難だった。
もう一度ため息をついて、出口へ足を向けようとしたとき、真樹が声をかけた。
「もし・・・、もしも誰かへのプレゼントに迷っているなら、あなたの好きなものを贈ってみたらどうかしら」
「自分の好きなもの?」
「ええ」
真樹は、思案するように頬に手をあてた。
「そういうのも、贈った人の個性が出て、いいんじゃないからしら」
4
四月。友枝小はすでに春休みである。
わずかに抵抗を続けていた冬将軍も、いまではすっかり北へと追いやられ、校庭に植えられた桜も、ちらほら花を咲かせ始めている。数日後には満開になり、春の象徴として咲き誇るだろう。
だが、こんな季節でも景気の悪い顔をした人物もいた。
「あうー、今日は補習だよぅ」
さくらは、ぼやきながらも、律義に算数の補習を受けに来たのだった。
今朝、補習と聞いた桃矢に、さんざんからかわれたことは言うまでもない。
「はう〜」
ため息をつきながら、教室の扉を開けて中に入り、そのまま、とぼとぼと自分の席に向かった。
うつむいて狭くなっていた視界に誰かの足が映った。顔をあげると、小狼が席に着いていた。
「あれ? 李くんも補習なの?」
「あ、ああ」
どこか、落ち着かないような態度だった。
「でも、李くん、算数得意だったよね?」
「い、いいだろ! べつに」
さくらはそれ以上は追求せず、自分の席に鞄を降ろそうとした。
「ほえ?」
机の上に、小さな箱があった。
手に取って眺めてみる。
それはチョコレートだった。箱には『コロコロボール』と書かれている。
「これ、李くんの?」
「お、俺は知らないっ。それはおまえのだ」
言っていることに矛盾があった。
「だって」
「おまえの机の上にあったんだから、それはおまえのものだ!」
小狼は急に立ち上がると、出口に向かってズカズカと大股で歩きはじめた。
「あっ、李くん、補習は?」
「もう済んだから帰る!」
「ほえ?」
教室を出て行く小狼と入れ替わりに、知世が入ってきた。怪訝そうに小狼の後ろ姿を見送りながら、さくらのもとへやってきた。
「どうかなさいましたの?」
さくらは簡単に事情を説明した。
「これ、どうしよう?」
「それは、さくらちゃんのものですわ。だってその箱に中には・・・」
――李くんの想いがいっぱい詰まっているんですもの。
〜 少年 〜 完
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