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1
 会議室の重厚な扉が開くと、その中から、スーツに身を包んだビジネスマンたちが一斉に出てきた。彼らはカツカツと靴音を響かせながら、急ぎ足で廊下を進む。その一団の先頭に立つのが大道寺園美。この会社、大道寺コーポレーションの社長である。颯爽と赤いスーツを着こなした彼女は、歩きながら部下達に指示を下す。
 「例の調査報告、急いで。あの企画の成否はスピードが鍵なのよ」
 「はい、かしこまりました」
 指示された男は一礼した後、命令を果たすべく一団から離れた。
 秘書らしき女性が、時計を気にしながら進言する。
 「サイテックス社とのトップ会談の時間が――」
 「分かっています。車の準備は出来てますか?」
 「はい、表に待たせてあります」
 「では、急ぎます。時間がありません」
 
 
 2
 コンコン。
 知世の部屋の扉を、メイドがノックした。
 「お嬢様、お食事の用意が整いました」
 そのまま、ドア越しに用件を告げる。
 「わかりました。いま行きます」
 その返事を聞いたメイドは、扉の前から下がった。
 扉の向こうの知世は、裁縫の途中だった。壁の時計を見やったあと、散らかった道具と材料をかたづけて、それまで飲んでいた紅茶のカップを持って部屋を出た。
 廊下を進むと、途中で出会ったメイドがティーカップの後片付けを申し出た。知世はティーカップを預けて、食堂へと向かった。
 ヨーロッパの城を思わせるような広い部屋。ホールと呼ぶほうが、ふさわしいかもしれない。その中央に置かれた大きな長いテーブル。二十人ほどが座れるだろうか。上座に近い方の隅に一人分の席が設けてあり、銀のナイフやフォークが置かれている。ホールの壁際には何人かの給仕が、左腕に白いナプキンを携えて控えていた。
 知世が席に着くと、給仕の者がしずしずとスープを運んでくる。それを知世の前に配膳すると一礼して下がった。
 夏向けの冷スープだった。知世はそれを静かに飲んだ。
 スープを飲み終わる頃合いを見計って、次の料理が運ばれてくる。
 スプーンをナイフとフォークに持ち替えて、静かにそれを食べる。
 ホール全体が静まり返っているので、ナイフとフォークの音が実際より大きく感じられた。他に物音といえば、給仕が歩く時にたてるかすかな衣擦れの音だけだ。
 ナプキンで口許を軽く拭い、静かな食事は終った。
 食後のデサートと紅茶は部屋に運ぶようメイドに頼んで、知世は食堂を出た。
 
 ほぼ同時刻。大道寺コーポレーションの最上階の一室。
 柔らかい照明の室内から窓の外を見下ろすと、街のイルミネーションが無機質な輝きを放っていた。
 一日の予定をようやく消化した園美は、時計を見ながら深いため息をついた。
 「もう何日、一緒に食事してないかしら」
 最近、つとに忙しい。新たな企画や中間決算を控えていることもあるが、それだけではない。
 社長という仕事は、その気になればいくらでも手を抜くことができる。実務は部下に任せて、要所要所の判断だけを自分がすればいい。そうすれば文字どおり社長出勤も可能になるのだが、園美はそうはしなかった。
 上に立つ者が、自ら率先して動かなければ部下はついてこない。そういう考えの持ち主だった。だからこそ、若い身でありながらも、社長という大任が務まるのだと。
 「明日も忙しいわねぇ・・・・」
 スケジュール表を見て、疲労の滲んだ声をもらす。
 卓上カレンダーには、九月三日に赤い丸印がついていた。
 「あと少しね。それまで頑張らないと」
 その日は丸一日、休暇にするつもりだった。もっとも九月三日は日曜日にあたっているのだが、このままでは仕事に塗りつぶされてしまう。事実、ここ数週間、週末も仕事だったのだから――。そうならないためにも、いま頑張る必要があった。
 
 
 3
 そして数日が過ぎた――。
 
 園実は仕事を終えて、自ら運転する車で家に帰る途中だった。過密なスケジュールをこなした甲斐があって、ようやく明日は休暇をとることができる。
 夜の街を真紅のスポーツカーが駆ける。交差点を曲がり、少し走ったところで車を停めた。
 花屋の前だった。
 ひいきにしている行きつけの花屋であり、電話一本で配達させることもできたが、誕生日に贈る花だけは、自身が出向いて買いたかった。
 「これはこれは、いらっしゃいませ」
 店内に入ると、エプロンをした主人が出迎えた。
 「マトリカリアはあるかしら」
 マトリカリア――。和名を夏白菊。野生種はその名のとおり初夏に花をつける。品種によって花の形にいくつかのバリエーションがあるが、一重咲きのものは、カモミールに似た白く小さい可憐な花を咲かせる。
 「ええ、ございます。贈り物ですか?」
 「明日は娘の誕生日なの」
 「それはおめでとうございます。ところで、明日といえば九月三日でございますね」
 「ええ、そうだけど」
 「それなら、マーガレットなどはいかがでしょうか? 九月三日の誕生花ですし」
 月ごとに誕生石があるように、誕生花というものも存在する。誕生花は一年三六五日の全てにひとつひとつ割当てられている。ただ、星座などとは違って明確な基準はなく、国や宗教によっても内容は異なる。そのなかでも、マーガレットは九月三日の代表的な誕生花だった。本来は春に咲く花だが、栽培技術と人気とに支えられて、この時期でも店頭に並んでいる。
 「詳しいのね」
 「一応、花屋でございますし、私自身も花は好きでございますから」
 「でも、それは将来のためにとっておきたいの」
 園実もまた、花には詳しかった。
 「さようですか」
 店の主人は、きっと来年か再来年のためにとっておいてあるのだろう、と考えた。誕生花とはいえ、毎年同じ花を贈るのでは芸がない。
 「鉢植えと切花がございますが」
 「切花でお願いするわ」
 「では、さっそく花束をお作り致しましょう。他にどんな花を混ぜましょうか?」
 「いえ、マトリカリアだけでいいわ。それも、ほんの少しあればいいの」
 それを聞いて、店の主人は少し不思議そうな顔をした。
 主人は、お得意様である園美のことは良く知っていた。いつも花を買う時は過剰なほど景気が良かったし、彼女が大会社の社長であることも承知している。
 「これもね、とっておいてやりたいの」
 ますます分からない、という店主の様子を見て、園美は微笑みながら言葉をついだ。
 「花束をもらう喜びをね」
 園美は、まるでなにかを回想しているかのような表情を見せた。
 「いつか、あの子に好きな男性(ひと)ができて、その人から両手いっぱいの花束を贈られる日のために――」
 ふと我にかえるように、視線を戻し、
 「でも女って、花束はいくらもらってもうれしいものだけど」
 と、照れを隠すように笑った。
 
 園美が帰宅したのは午後十時を過ぎた頃だった。
 メイドたちが出迎えるなか、着替えをするために、いったん自室に戻った。
 花束と呼ぶには質素すぎるマトリカリアのささやかな束を窓辺に置く。これを手渡すのは明日にするつもりだった。他のプレゼントはすでに用意してある。
 「まだ、起きてるかしら」
 知世の部屋を訪ねようかとも思ったが、もし眠っていたら起こしてしまうことなるので、やめることにした。
 着替えを済ませて、廊下に出ようとドアを開けると、ちょうどノックしようとしていた知世と鉢合わせになった。
 「起きてたのね」
 「おかえりなさい、お母様」
 「ただいま、知世」
 通りかかったメイドに紅茶を頼んで、ふたりはリビングへ移動した。
 「ごめんなさいね、知世。最近、帰りが遅くなってばかりで」
 連日帰りが遅く、夕食はおろか、こうしてゆっくり話をすることもままならなかった。
 「いいえ。それよりも、あまり無理はなさらないでくださいね」
 「ありがと。でも明日は丸一日お休みだから大丈夫よ。久しぶりに私が朝食を作るわ」
 言いながら、両腕をあげて元気いっぱいのポーズをしてみせた。
 「でも、久しぶりのお休みなのですから、もっとゆっくりされたほうが――」
 「いいのよ。私がそうしたいの」
 そこへメイドが紅茶を運んできた。
 目に鮮やかな紅い液体に、薄切りのレモンを浸して素早く引き揚げる。
 清涼としたほのかな香りが心地よい。
 ふたりは紅茶を飲みながら、少しの間、会話を楽しんだ。
 やがて時計が十一時を知らせると、園美は振り向いてそれを確認した。
 「あら。もう、こんな時間なのね」
 「お母様、今日はお疲れでしょう? そろそろ、おやすみになられては」
 「そうね、そうしようかしら」
 園美は、ティーカップをテーブルに置き、立ち上がると、
 「遅くまでつきあわせちゃって、ごめんなさいね」
 と、ドアノブに手をかけた。
 「いいえ、私も楽しかったですわ――。おやすみなさい、お母様」
 「おやすみ、知世」
 園美の笑顔の余韻を残して、ドアが閉まる。
 残った知世は、メイドを呼んで何ごとか指示した後、自分の寝室へ戻った。
 
 
 4
 その深夜――。
 屋敷のみんなが寝静まった頃、知世はベッドから起きだして自室を出た。
 園美の寝室の前に立ち、耳を澄ます。それから静かに音をたてぬよう気を配りながら、少しだけドアを開けて、なかの様子をうかがった。
 中は暗かった。その気配から、園美がぐっすり眠っていることがわかる。
 室内に身を滑り込ませドアを閉めると、廊下からの灯りが遮断されて、一瞬、闇が濃くなった。
 目が慣れるのを待って、知世は、園美を起さぬよう足を忍ばせて、一歩一歩ゆっくりとベッドのそばに歩み寄った。
 枕元までくると、窓からのわずかな月明かりだけを頼りにして、目覚まし時計を探した。
 そっとアラームのスイッチを切る――。明日の朝は園美を起さないようにと、すでにメイドたちには申し伝えてあった。
 「ゆっくり休んでくださいね」
 そう静かにささやいたあと、床に腰を下ろし、枕元に寄り添うようにしてベッドの縁に身を寄せた。
 窓には月が浮かんでいる。その蒼い光が知世を照らしていた。月の光を身にまとったその姿は、まるで神話を思わせるように美しかった。
 静寂があたりを支配するなか、知世は、湖のように深く静かな優しさをたたえた瞳で、眠る園美を見つめていた。
 
 
   窓辺では、白いマトリカリアの花が夜空を仰いでいた。
 ラテン語の「母」に由来するマトリカリア――その花言葉は『深い愛』
 いつか知世が、両手いっぱいのマーガレットをもらえるようにと、願いのこもったささやかな花束・・・・。
 そのマーガレットの花言葉は、心に秘めた愛、恋占い、誠実・・・・、そしてもうひとつ、園美がもっとも気に入っている言葉があった。それは『真実の愛』
 ――いつかきっと、めぐり逢えるようにと。
 
 
 
 〜 花束に願いをこめて 〜 
 
 
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