1
街が白く霞んでいる。闇の支配と光の支配が拮抗する、わずかな時間。
もうすぐ冬も終ろうとしているが、まだ寒さは健在だった。地面には霜が降り、窓は白く曇っている。空気は、透き通ったガラスの刃のようだった。
やがて、色をなくしていた街は、ゆっくりとその色彩を取り戻し始める。
いつもやってくる、ありきたりな朝。
ピピピピッ。ピピピピッ。
暖かい夢をたたき壊す、無情のベルが鳴り響く。それは聞く者を夢の世界から追い出すまで止むことはない。
「う、うう」
布団から手を伸ばし、バタバタとあたりを泳がせる。目覚まし時計を探り当て、スイッチを切る。その間、一度も布団から顔は出さない。
ようやく邪魔者を排除して、再び夢のなかに舞い戻ろうとしたとき、べつの敵が現れた。
「おーい、そろそろ起きろよ」
だが、その遠くから聞こえる声は、目覚し時計ほどの脅威にはなりえなかった。
「おい、いつまで寝てんだ? もう朝メシ、出来てるぞ」
階段から上を見上げて呼びかけるが、返事はない。
「おーい、さくら〜、いい加減起きないと、遅刻すっぞ〜!!」
ひときわ大きな声で呼びかけたあと、反応があるか確かめるべく、耳をそば立てる。
数秒ののち・・・。
「ほ、ほええええ!」
その悲鳴にも似た叫びを聞いて、桃矢は「これでよし」と頷いてキッチンに戻った。
冷めかかった味噌汁を暖め直していると、なにやら二階が騒がしい。しばらくすると、その騒音は勢い良く階段を降り、ダイニングに侵入してきた。
「お兄ちゃん! なんで、もっと早く起こしてくれなかったの!?」
「おまえが起きなかったんだろうが」
キッチンから出てきた桃矢の手には、湯気の立ち上る味噌汁の器があった。
「ほれ、はやく食わないと遅刻だぞ」
さくらの座る位置に、それを置く。
「あ、そうだった。急がないと」
「ちゃんと顔洗ったのかぁ?」
「洗ったもん」
猛烈な勢いで、食卓を席捲するさくら。
エプロンをつけたままの桃矢が、腕時計に目を落とす。
「あと4分」
まるで受験会場の試験官さながらに言う。
「うう」
唸りながらも、さくらの口と手は絶え間なく動いていた。
「まったく、毎朝毎朝、よく飽きないな」
何か言い返してやりたいが、食べるのに忙しく、それどころではない。
さくらがようやく食べ終えると、空になった食器を手際良く片づけて、桃矢は朝食当番としての任務を完了した。
2
いつもの朝、いつもの並木道。
「おはよう」
二人を迎えたのは、いつもの笑みをたたえた雪兎だった。愛用の自転車を傍らに、いつもの場所に立っていた。
「悪りーな、遅れて」
「ううん、大丈夫だよ」
「ちょっと、怪獣のエサやりに手間取ってな」
「お、お兄ちゃん!」
言うが早いか、必殺のローラーブレードアタックが飛ぶ。
スカッ。
桃矢に悠然とかわされて、不発に終る。
「ふふーん、そうそう同じ手を何度も食らうか」
「く〜っ、くやしい〜」
そんなふたりを見ていた雪兎が、クスクスと笑いを漏らす。その視線に、はたと我に返ったさくらは、恥ずかしさで顔を朱色に染める。
二台の自転車と、一対のローラーブレードは、学校をめざして並木道を進む。
「そういえば、もうすぐ桃矢の誕生日だね」
「ああ、そういや、そうだな」
まるで他人事のような返事だった。
「さくらちゃんは、なにかプレゼントするの?」
雪兎の問いにさくらが答えるより早く、桃矢が口を挟む。
「怪獣からもらってもなぁ」
それを聞いて、キッと桃矢を睨むさくら。
「でも、怪獣からものをもらうなんて、めったに経験できないしな。ま、もらっとくか」
しれっとした顔の桃矢。
「もうっ、お兄ちゃんになんか、なにもあげないっ!」
3
それから数週間が過ぎた。
その間に、パレンタインをめぐる騒動があり、あの日のささやかな出来事など忘れ去られたかに思われた。
そんなある日の午後。
「さくらちゃーん」
学校帰りのさくらを呼び止める声がした。振り返ると、自転車に乗った雪兎が走ってくるのが見えた。
「あ、雪兎さん」
「いま帰り?」
さくらに追いつき、自転車を止める。
「はい」
「じゃ、一緒に帰ろうか」
もちろん、さくらに異存はない。
「チョコレート、おいしかったよ」
「でも、あんまり上手にできなくて・・・」
「ううん、そんなことないよ。一度に食べるのもったいないから、ゆっくり食べようと思ったんだけど・・・でも、おいしいから、ついつい全部食べちゃた」
そう言いながら微笑む雪兎の首には、オレンジがかった黄色いマフラーが巻かれていた。
「それに、このマフラーも気に入ってるんだ。さくらちゃんの手作り・・・とってもあったかいよ」
ちょっぴり誇らしげなしぐさで、マフラーの手触りを確認する。
「ありがと、さくらちゃん」
なにも言えず、ただただ赤面するさくら。
「ところで、風邪はもう平気?」
「はい、すっかり良くなりました」
「良かった。健康が一番だもんね。あの時、桃矢もとっても心配してたんだよ」
「お兄ちゃんが?」
「うん。口では何も言わないけど、授業中もどこかうわの空でね」
バレンタンデーのあの日、さくらは風邪をひいて、チョコレートを渡すことをあきらめた。何日もかけて丹念に編んだマフラーを見て、すこしだけ泣いた二月十四日。
その悲しみを救ったのは、見舞いに来た雪兎だったが、それをお膳立てしたのは桃矢なのである。桃矢こそがあの日の隠れた立役者だった、といってもいいだろう。もっとも、桃矢自身は「俺はなにもしてねぇ」と言うだろうが。
「さくらちゃん? どうかした?」
考えごとをしていたさくらに、雪兎が心配そうに声をかけた。ぼーっとしているように見えたのだろう。
「あ、なんでもないです」
「そう? それならいいんだけど」
そのあと、ふたりは他愛無い話に花を咲かせて、気がつくと、並木道の中ほどまで来ていた。
「じゃ、僕はこっちだから。さよなら、さくらちゃん。またね」
手を振り、自転車を漕ぎ出す雪兎。
その後ろ姿を見送ったさくらは、ゆっくりとした足取りで家路についた。
4
後日。
その日の桃矢はサッカー部の試合とアルバイトが重なり、帰宅が遅くなった。
もうすっかり日も暮れて、一段と寒さが厳しい。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
奥から藤隆の声がする。キッチンへ行くと、夕食の後片付けをしているところだった。
「早かったですね。分かっていれば、もう少し待っていたんですが」
今日はあらかじめ、遅くなると予定表に書き込んであった。それで、藤隆とさくらは、ひと足早く夕食を済ませていたのだが、実際の帰宅はその予定より一時間ほど早かったのである。
「さくらは?」
「宿題があるとかで、部屋にいますよ」
「宿題ねぇ・・。明日は雪か」
「いま、暖め直しますから、少し待っててくださいね」
「じゃ、俺、着替えてくるわ」
そう告げて、ダイニングを出る。
階段を上り、さくらの部屋の前を通りかかる。そのドアをノックしようとしたが、一瞬ためらったあと手をひっこめた。
「ごっそさん」
普段着に着替えてダイニングに戻った桃矢は、ちょうど夕食を終えたところだった。その間、さくらは一度も顔を見せていない。
コーヒーを飲んでいた藤隆が食器を下げようとする。
「あ、いいよ。あとは俺がやるから」
「そうですか。では、お願いしますね」
立ち上がり、エプロンを外す藤隆。
「あ、そうそう。さくらさんから伝言があります」
「伝言?」
「あとで冷蔵庫を開けるように、と。では、私は書斎にいますから」
そう言い残すと、さっさとダイニングを出ていってしまう。
「?」
よく分からないまま、食器の後片付けを済ませ、言われたとおりに冷蔵庫を開けた。
それを見た桃矢は、思わず苦笑してしまう。その表情は、人前では決して見せることがない、照れくささの入り混じった複雑なものだった。
そこにあったのは、さくらの手作りケーキだった。ちょっと不格好な円形に、白いクリームが不器用に塗られていた。
その白い表面に、これまた不器用な文字が、チョコレートでこう書かれていた。
『怪獣じゃないもん』
今日は四年に一度の二月二十九日だった。
〜 それぞれのかたち 〜 完
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