心持ち狭い室内。柔らかい照明は蛍光燈のものではなく、電球によるものだった。壁のほとんどは本棚で占められいてる。机の上にも、うず高く本が積まれていて、ワープロのほかに、コーヒーカップを置くスペースがかろうじてあるくらいだった。
部屋の主である藤隆は、いまキーボードを打つ手を休めて、冷めたコーヒーをひと口すすった。論文をまとめている最中なのだが、どうも、はかどらない。書いては直し、読み返しては削除する。さきほどから、それの繰り返しだった。どうやら、スランプらしい。
ふと時計を見ると、とうに零時を回っている。もう切り上げて休むか、もう少し続けるか迷ったが、またキーボードに手を伸ばす。だが、その前にコーヒーを淹れ直そうと、カップを持って席を立った。
暗い廊下を静かに歩く。
キッチンの電気をつけて、コーヒーメーカーに水と豆を入れた。あとは待つだけである。
椅子に腰かけ、近くに飾ってあった写真立てを引き寄せた。
「撫子さん」
昔と変わらない笑顔がそこにはある。そしてもう変わることがない笑顔・・・。
藤隆は、じっと写真を見つめている。
彼には桃矢のような、この世ならざる者を視る能力はない。その声を聴くこともできない。ただ、語りかけるのみである。
藤隆は、大学では考古学を教える教師であり、家庭では二児の父である。最愛の伴侶を失ってから、彼はひとりで子供たちを育ててきた。娘のさくらは母をほとんど知らない。当時の写真と藤隆の話から、その面影を偲ぶのみである。だが、さくらは明るくまっすぐに育った。さくらは言う――
「お料理もお裁縫も上手で、とっても優しいの。お父さん、だーい好き」
さくらに限らず、彼を知るものはみな、藤隆を評するとき必ず「優しい」という言葉を使う。それは決して間違ってはいないが、彼の真価は「常に」優しいという点にあるのだ。彼自身が苦しいとき、辛いとき、悲しいときも、そんなそぶりを微塵も見せず、いつも優しげな笑みを絶やさなかったのだから――。
さくらは、そんな藤隆の強さと優しさに守られて、桃矢はそんな藤隆の背中を見て育ってきたのだ。
いつもニコニコしていて、毎朝、気持ちのいい笑顔を見せてくれる藤隆。
そして明日も・・・。
桃矢はのどの渇きを覚え、目を醒ました。
何時だろうか? 時計は午前一時であると告げている。
ベットから起き上がり、上着を羽織って部屋を出た。廊下は暗かったが、階段には一階からの明かりが漏れていた。
――こんな時間に誰だ?
だが、こんな深夜に起きているとすれば、父しかいない。
桃矢は、眠っているさくらを起こさないように、足音を忍ばせて階段を降りた。
リビングをのぞいて、「父さん」と声をかけようとしたその時、桃矢は言葉を飲み込んだ。
そして、何も言わずに静かにその場を離れ、自分の部屋へ戻った。
コーヒーメーカーが褐色の液体を滴らせている。その水滴の音以外は、なにひとつ聞こえない静かな夜だった。
藤隆は、写真のなかの最愛の人の髪を指でなぞった。
写真に向かって語りかける藤隆の肩には、手が添えられていた。まるで、傷を癒そうとしているかのように・・・。
その白い手の持ち主の背中には翼があった。その瞳は優しく藤隆を見つめている。藤隆が写真の中の撫子を見つめるのと同じく、優しくも切なげな瞳だった。
しんしんと夜は更けて、空には星々が瞬いていた。
〜 天使の舞い降りる夜 〜
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